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好生館 整形外科部長 野口康男
好生館に異動のため佐賀に引っ越してきて7年になる。健康のため佐賀城のお濠の周りをよく歩いている。佐賀城のお濠は幅が半端でなく甚だ広く、また水面が地面に近いため尚更広く見えて歩いていてもゆったりした気分になり、すこぶる気持ちがよい。ただ何か気になると思ったら、東側にお濠がなく、ロの字型でなく逆コの字型を呈している。
佐賀城本丸歴史館ができて昔の地図をみるとお濠はちゃんとロの字型をしていたことが分かり、一体どの辺りにあったのか、いつの頃に埋め立てられたのかと疑問を持つようになった。たぶん明治維新後の早い時期に埋め立てられたのだろう、などと漠然と思っていた。
学会出張で上京したときに、別の要件で神田神保町の古本屋街に立ち寄った。そのとき秦川堂という書店で古地図がたくさん売られているのをたまたま見つけた。何げなくあちこち見ていると、明治期からの地図が各地方毎に分けて入れてある棚があった。その中にロの字型の佐賀城のお濠が描かれた古い地図を見つけた。これは一体何年だ?えっ、大正時代??
こうして心の奥に引っかかっていた東濠のなぞが次第に明らかとなっていった。これをきっかけに佐賀県立図書館などにも出かけて少し文献を探してみたり、インターネットで検索してみたりして、現時点で私が分かったのは以下に述べる通りである。昔からご存知の方には新鮮味はないかもしれないが、ここまで読まれたからには、もう少しおつきあい願いたい。
神田で買い求めることができた佐賀城がほぼ明確に描かれた地図の作成年は、明治42年、大正15年、昭和8年、昭和13年、昭和22年、昭和30年である。更に県立図書館で見つけた書籍(佐賀市史、ふるさとの思い出写真集佐賀市、日本図誌大系)に掲載されていた地図の年代は、慶長14(1609)年、承應3(1654)年、明治22(1889)年頃、同25(1892)年、大正3(1914)年、昭和7(1932)年、昭和15(1940)年、昭和39(1964)年である。江戸時代初期から明治22年頃の地図1)では東濠はもちろん、本丸を中心とする城内の南東隅を取り囲むように幅の狭い濠も描かれている(図1)。肝心の東濠であるが、地図を年代順に見て行くと、昭和13年の地図2)(図2)までは東濠が描かれているが、昭和15年の地図3)(図3)からは消えていた。すなわちこの2年ほど間に埋め立ての時期が絞り込まれた。

【図1 明治22年頃の佐賀城付近の地図】
東濠だけでなく、本丸付近を取り巻く濠もみえる。佐賀公立病院として好生館も記されている。その南東部に南北に細長い万部島という島がみえる。松原神社はあるが、まだ佐嘉神社はなく、現在の佐嘉神社の位置には当時松原神社の庭園があり、神園と記されている。
(復刻佐賀市史から引用)

【図2 昭和13年の佐賀城付近の地図】
本丸付近を取り巻く濠はすでにないが、東濠はまだ埋め立てられていない。好生館は縣立病院と書かれている。佐嘉神社が記されている。佐嘉神社の南側正面に南に向けて道ができている。その先に万部島公園という文字が見える。南濠には城南橋もかかっている。
(和楽路屋発行の佐賀縣地図から引用))

【図3 昭和15年の佐賀城付近の地図】
東濠は埋め立てられている。(日本図誌大系九州Iから引用)
更に、佐賀市史1)には城濠一部の埋立と題した章が設けられ、その経緯が書かれている。その第一節の「佐嘉神社外苑施設」には、「昭和八年十月別格官幤社佐嘉神社の創祀せらるるや、是より先き同神社の外苑施設、其他に必要ありて舊城濠全部の無償下渡しを鍋島侯爵家に請い、其一部を埋め立て、埋立地の一部は佐嘉神社の外苑として鍋島家に献納し、一部は公入札、又は随意契約で適宜売却せんとの希望を以て、同年三月初旬、佐賀市では市会協議会の議を経、佐嘉神社奉賛会地方役員の賛助を得て之を鍋島家に請願せしに、鍋島家では佐賀市の福利増進を助成する意味と、また佐嘉神社外苑を速成せんとする佐賀市の意志を諒とし、その申出でに内諾を与えられた。」と記されている。
しかし、第二節には「城濠埋立反対説」と題して、昭和八年七月に市議会で可決されて埋め立てに着手したところ、「然るに一部市民間に埋立反対の説を為す者あり、佐賀城濠は周囲一理、幅四十間、舊時の偉観厳然として存在し、且つ其池水は従来軍事上は固より、遊水地帯として水利上甚だ必要である、今之を埋築して旧観を失ふに至らば、佐賀城数百年の歴史は全く索むるに所がなくなるであらう、現今佐賀城の歴史を物語る資料としては、ただ鯱の門と舊藩主の居室と、此城濠あるのみなるに、之を埋立て昔時の観を没するに至らば、歴史上また一ツの資料を永久に無くするは勿論、若し淫霖豪雨の為め洪水市内に氾濫し、市民水難に逢着することあらば之を如何にするか、当局は経済一方にのみ偏せず、此等の点にも大に眼を注ぐべきだと云うにあり。」と記している。
一部からの反対はあったものの、第三節の「埋立工事」には埋め立ての経緯が記されている。最初に佐賀神社前の城濠から着手し、さらに「万部島の東南部に当る城濠二町三畝二十四歩は無償譲与を受けたる後、濠の一部に幅七米の水路を残し、昭和十三年十月埋立工事に着手し同十四年三月竣工した、其の埋立総面積は五千三百八十七坪二二である。」と記し、さらに「此の埋立て竣工後、県立病院西側の八百三十六坪は県立病院に譲渡すと同時に、百五十七坪を病院敷地と交換し、また軍事援護佐賀「ミシン」授産所の東側三百五十八坪は県所有地(元刑務所跡)の一部と交換し、龍谷中学校運動場西側の埋立地の一部を同校に譲渡し、」と続く。
この辺りのことは、好生館史4)にも一部記載されており、昭和14年6月14日の土地買収登記の項に、「佐賀市水ヶ江町片田江小路267番地2宅地180.33坪を坪8円、1,498円64銭にて鍋島侯爵家より買収登記(現在伝染病棟敷地)、鍋島侯爵家所有池沼佐賀市赤松町元城内48番地ノ6(27坪実測71坪)を寄付せられ登記(現在佐賀保健所及び館内敷地)」と記され、佐賀市史の記載と数字の違いはあるものの時期はほぼ一致する。
以上より東濠の埋め立ては、佐賀鍋島藩10代直正、11代直大藩主を祀って昭和8年に創祀された佐嘉神社の外苑施設などに必要となって行われ、昭和14年に完成したことが分かった。
東濠がどの辺りにあったのか?については、「どうも好生館の立体駐車場のあたりもお濠だったらしい」と話してくれる人がいた。しかしこの辺かなと思われる場所を歩いてみても、ここに昔お濠がありましたといった立て札などは特に見当たらない。
好生館のすぐ西側に万部島という所があり公園のようになっている。好生館の北門から佐嘉神社に通じる新道通で生まれ育った消化器外科部長の佐藤清治先生も小さい頃よく遊んだそうで、ここには佐賀藩代々の藩主が建立した法華経一万部読誦を記念のする石塔群が並んでおり、そこから万部島という名前もついたらしいが、古い石塔があることから江戸時代から濠ではなかったことは分かる。その南には明治7年の佐賀の乱で亡くなった人たちをまつる「佐賀の役記念碑」が建てられており、碑銘には大正9年と書かれている。記念碑の近くには大木もあり、埋め立て前の時代に建てられたこの記念碑の所も東濠ではなかったことは明らかと思われる。また佐藤先生の生家は埋め立てより以前に建てられていたらしいとのことで、新道通付近は濠ではなかったと思われる。
しかしあちこち歩き回ってもよく分からないことから、現代の地図と埋め立て直前の昭和13年の地図を並べて見比べてみた。しかし、縮尺も異なりやはりよく分からない。そこで、地図をスキャナーでパソコンに取り込み、画像ソフトを使って東濠付近を同じ縮尺に拡大してみたり、紙に印刷して重ね合わせたりなど試行錯誤の末、昭和13年の地図を透明フィルム(オーバーヘッドプロジェクター用)に印刷して、同じ縮尺で紙に印刷した現代の地図やインターネット検索サイトのGoogleの航空写真の上に重ね合わせてみたりしたところ、現在のどの位置に東濠がかつてあったのかがほぼ特定できた(図4)。ただし、重ね合わせる際に昭和13年の地図の南北と東西の縮尺が同じではないらしく、完全にぴたりと道路の位置などが重ならず、10メートル程度の誤差があるかもしれない。誤差はあるとしても、現在の立体駐車場の南側部分は間違いなくお濠だったと考えられ、佐嘉神社の駐車場もお濠だった。またNHKの東側にある空き地もほぼ全体がお濠だったと考えられる。

【図4 佐賀城の東側付近の昭和13年の地図と現代の航空写真のモンタージュ】
昭和13年の地図(図2)の主要な道路と濠を抽出し、インターネット検索サイトのグーグルで提供されている。航空写真に重ね合わせたもの。佐嘉神社の駐車場、好生館の立体駐車場とその北側の住宅地、それにNHK放送局の東側にある空き地などが東濠であったことが分かる。
万部島の記載は佐賀市史1)に掲載された明治22年頃の地図には東濠の東側に接して細い堀で水ヶ江とは隔てられた南北に細長い島として記されている(図1)。現在残っている石塔群はその島の最北部に位置すると思われる。この地図では万部島はかなり南まで広がっており、水ヶ江と隔てた細い堀はもしかしたら現在の好生館の本館の下をくぐって龍谷高校の敷地へ流れ込んでいる多布施川ではないかと考えられる。とすれば好生館の西半分は万部島という東濠にあった島に建っていることになる。
インターネットで検索していたら、平成19年3月に佐賀城下再生百年構想策定会議というところが出した佐賀城下再生百年構想調査報告書という文書が出てきた。そこには「本構想は、(中略)佐賀城本丸歴史館を拠点として城内及び周辺地区を含む佐賀城下において、100年後の孫の世代まで受け継げる品格ある佐賀城下の再生を目指すために策定したものである。」といった文言ではじまり、佐賀城下の歴史や現在の土地利用の現状、これまでの整備状況、法規制の状況などが書かれている。これまでの整備状況を読んでいると、歴史の森ゾーン(鯱の門周辺)の整備の項に、「用地買収を昭和62年より進めている、赤松小学校の移転(平成5年)、佐賀城本丸歴史館の整備(平成16年8月開館)、東濠の復元整備(用地買収を進めており、今後お濠復元を予定している)、NHK佐賀放送局等の移転が残されている」と書かれ、東濠の復元整備が進められていることを初めて知った。
どれくらいの年月を要するのかは分からないが、もしかしたら近い将来、昭和初期に埋め立てられていた幻の東濠を私たちも見ることができる日が来るのかもしれない。しかし復元されたその時、150年以上にわたって水ヶ江の地にありつづけた好生館はもはや東濠のそばにはない。